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国立公文書館


 独立行政法人国立公文書館の資料群は、現在、①各府省等から移管された資料である「行政文書」、②司 法機関から移管された資料等である「司法文書」、③独立行政法人等から移管された資料である「法人文書」、 ④寄贈または寄託された資料である「寄贈・寄託文書」、⑤内閣文庫を由来とした古典籍・古文書等である「内 閣文庫」、の大きく五つの資料群に分けられる。本プロジェクトにおいては、「内閣文庫」由来の資料群の中 から江戸図・江戸城図を調査した。
 内閣文庫は、明治6 年(1873)、太政官正院歴史課に設置された図書掛を起源とする。明治17 年(1884)には、 各官庁の中央図書館として太政官文庫が設置され、翌18 年(1885)には内閣制度の創始とともに、内閣記 録局図書課所管の内閣文庫として発足した。その後、昭和46 年(1971)、総理府の附属機関として国立公 文書館が設置されると、内閣文庫はその一課となった。平成13 年(2001)、国立公文書館は独立行政法人 となり、「内閣文庫」の名称は消滅したが、内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されている。
 内閣文庫由来の資料は、江戸幕府旧蔵の和漢書・記録類を中核に、明治政府収集の古書・古文書・洋書、 官庁出版物などから構成される。江戸幕府旧蔵の和漢書・記録類の中には、江戸城内に設けられた徳川将軍 家の文庫である「紅葉山文庫」、江戸幕府の教育機関であった「昌平坂学問所」、国史や律令の講習および史 料編纂を行った「和学講談所」、江戸幕府の医学校であった「医学館」などの蔵書が含まれている。明治政 府収集の古書・古文書・洋書としては、内閣文庫創立時に、諸官庁が収集して所蔵していた和漢の古書も数 多く移管され、例えば修史館が謄写した史書類や太政官正院地志課・内務省地理局が集めた地誌などが引き 継がれている。
 国立公文書館所蔵の江戸図・江戸城図は、明治時代以降、諸官庁によって購入ないし謄写により収集され た絵図が大半を占める。太政官文庫から内閣文庫の時代にかけて諸官庁の所蔵資料が移管されており、この とき移管されたものが現在の国立公文書館に伝わっている。今回の調査対象となった資料も半数以上が明治 期の諸官庁の所蔵資料に由来するものである。具体的な旧蔵元としては、内務省、外務省、教部省、太政官 正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局、太政官正院歴史課・修史局・修史館・内務省臨時修史局が挙げ られる。
 旧諸官庁由来の資料が多数みられる一方、紅葉山文庫や昌平坂学問所などの江戸幕府の諸機関の旧蔵と みられる資料はほぼ残されていない。「江戸城御天守絵図」(紅葉山文庫旧蔵、請求番号〈以下略〉183-0841)、 江戸御場絵図(編修地志備用典籍〈昌平坂学問所旧蔵〉、177-0884)などがそのわずかな例である。  また、浅草文庫旧蔵の絵図が残されており、「御本丸御殿表御座敷之絵図」(183-0705)、「江戸御城二ノ 丸総御殿向之図」(183-0711)、「江戸御本丸大御奥御殿向図」(183-0715)、「江戸城二丸御絵図」(183-0834) などがそれにあたる。浅草文庫は、浅草蔵前八番堀に設けられた官立の公共図書館で、その蔵書は昌平坂学 問所と和学講談所の旧蔵書を中核としており、浅草文庫の蔵書の多くは現在の国立公文書館に引き継がれて いる。
 このほか、書誌学者であった長沢規矩也の蔵書印が捺された資料が内閣文庫の蔵書となって国立公文書 館に伝わっており、その中に江戸城関係絵図が存在している。「宮城内外之図」(177-0546)、「江戸城図」(266-0113)、「明治初年大手門外図」(266-0114)、「旧幕府郭内道路地図」(266-0115)などがそれである。
 « 参考文献»
  国立公文書館『内閣文庫百年史 増補版』(汲古書院、1986 年)
  長澤孝三『幕府のふみくら 内閣文庫のはなし』(吉川弘文館、2012 年)
  『国立公文書館ニュース 第10 号』(国立公文書館、2017 年6 月)


資料解題―江戸城二丸御殿の絵図について
 国立公文書館には、江戸城二丸御殿の全体を描いた絵図が4 点を存在する。
  「江戸城二丸図」(177-0340)…【A】
  「江戸御城二ノ丸総御殿向之図」(183-0711)…【B】
  「江戸城二丸表御殿向絵図」(183-0828)…【C】
  「江戸城二丸御絵図」(183-0834)…【D】


 今、仮にこれらの4 点を【A】【B】【C】【D】とする。【A】【B】【D】はおおむね同様の絵図であり、先行 研究においては寛永20 年(1643)の御殿とされている絵図である(内藤昌「江戸の都市と建築」< 諏訪春雄・ 内藤昌編著『江戸図屏風』毎日新聞社、1972 年>、平井聖・伊東龍一編『城郭侍屋敷古図集成 江戸城Ⅰ < 城郭>』 至文堂、1992 年)。【B】【D】は浅草文庫旧蔵の絵図であり、【A】は外務省旧蔵で明治17 年(1884)に模写 された絵図である。なお、【B】は、「浅草文庫」印に加え、「多湖有里文庫」印(多湖実成蔵書印)も捺され ている。【A】は【B】ないし【D】を模写した絵図と考えられるが、定かではない。他方、【C】は内務省旧 蔵で明治10 年(1877)に購入した絵図であり、先行研究においては宝永度の絵図ではないかと推定されて いる(前掲、内藤昌「江戸の都市と建築」、『江戸城Ⅰ』)。なお、【A】【B】【D】は二丸の表と奥の両方が描かれ ているのに対し、【C】は奥部分が空白となっている。
 まず、寛永20 年(1643)の御殿の絵図とされた【A】【B】【D】について述べる。いずれも色凡例があり、「此 色二階」【A】【B】ないし「此色二階家」【D】と記され、一階と二階を区別している。【D】は【A】【B】に 比べてサイズが大きく、細かい部分(「御宮」や庭など)も詳細に書かれており、各部屋について表記の省略(「同」 など)がない。一方、【A】【B】は「老中」や「若年寄」の下部屋に、「同」などと記され、表記の省略がみ られる。また、【D】において「御宮」の周囲に描かれている「角矢来」が、【A】【B】では省略されている。 【D】は資料の大きさや記載の緻密さから考えて、何らかの目的をもって作成された図と推測される。他方、【A】 は明治17 年(1884)に模写した絵図であり、【B】も蔵書印や記載内容から考えて模写図の可能性が高いの ではないだろうか。
 つぎに、【A】【B】【D】の年代について、内藤昌により寛永20 年(1643)の御殿とされ、長らくそれが 定説であったが、近年、畑尚子により、宝暦10 年(1760)の御殿ではないかという説が提起された(畑尚 子「江戸城二丸御殿」『東京都江戸東京博物館紀要』第5 号、2015 年3 月)。畑は、表と奥の構造を理由に寛永 20 年の御殿とするには不自然であることを指摘した上で、「御側御用人」の記載に注目し、側用人が正式に 置かれたのは9 代将軍徳川家重の時であることから、宝暦10 年(1760)に家重の隠居後の住まいとして二 丸御殿が新造された際の絵図ではないかとしている。なお、「御側御用人」という名称が『江戸幕府日記』 等の幕府の公式記録に記載されるのは、大岡忠光が側用人に就任した宝暦6 年(1756)以降であるが(福留 真紀『徳川将軍側近の研究』校倉書房、2006 年)、幕府外においては貞享~元禄年間以降、「御側御用人」と いう名称の使用がみられる。例えば、『武鑑』には貞享4 年(1687)から「御側御用人」の記載がみられ、『相 馬藩世紀』の元禄年間の記事にも「御側御用人」との記載が散見される(小林夕里子「江戸幕府側用人形成過 程の一考察」『早稲田大学大学院教育学部研究科紀要別冊』20 巻2 号、2013 年3 月)。この点は畑も言及しており、 検証が必要だと述べている。しかし、表に老中、御側御用人、若年寄の詰所があり、表の機能を充実させる必要のある時期は、4 代将軍家綱の世子時代か9 代将軍家重の大御所時代のどちらかであり、少なくとも家 綱期には「御側御用人」は存在しないことから、家重の大御所時代の絵図ではないかと畑は結論づけている。
 筆者が確認したところでは、諸役人の下部屋に「表右筆」と「奥右筆」の記載があり、右筆が表右筆と奥 右筆に分かれるのは天和元年(1681)であることから(大石学編『江戸幕府大事典』吉川弘文館、2009 年)、 少なくともこの時以降の絵図であると考えられ、寛永20 年(1643)の御殿だとすると、畑が指摘するように、 不自然な点が多いように思われる。「表右筆」「奥右筆」「御側御用人」という記載に注目すれば、貞享年間 以降とみるのが妥当であろう。ただし、絵図は過去の絵図を元に新たな情報を書き加えて使用される場合も 多く、部分によって年代のズレが生じることはあり得る。この点は注意する必要があろう。しかし、明暦3 年(1657)に起きた明暦の大火によって二丸は焼失し、その後、越谷御殿を移築していることから、明暦 大火以前の御殿の絵図を利用して、明暦大火以後の情報を書き込むという状況は考えにくい。従って、寛永 20 年の御殿とするには無理があるように思われる。
 【A】【B】【D】が寛永20 年とされたのは「御宮」の存在であり、内藤は二丸の「御宮」の変遷を詳細に 検討している(前掲、内藤昌「江戸の都市と建築」)。内藤によれば、二丸には「御宮」と称する東照宮が二ヶ 所に設置されており、一つは御天守下にあった「御宮」を寛永14 年(1637)に本丸との境、潮見坂北に遷 したもので、もう一つは正保元年(1644)に設置されたものである。ただし、正保元年の「御宮」がどこ に設置されたのかについては述べられていない。寛永14 年の「御宮」は、その後、承応3 年(1654)に紅 葉山の東照宮に合祀され、建物は川越仙波に移築された。  内藤は【A】【B】【D】に描かれた「御宮」を寛永14 年(1637)のものとし、この絵図を寛永20 年の二 丸を描いた絵図と比定している。しかし、畑は寛永14 年の二丸の絵図(「二之丸御指図」東京国立博物館蔵) と比べ、「御宮」の位置がずれていることを指摘した。ただし、畑はなぜ「御宮」がこの場所にあるのかま では言及していない。内藤のいう「御宮」が二つ存在したという説が正しいとすれば、これは正保元年(1644) の「御宮」ということになる。だが、正保元年であれば、寛永14 年の「御宮」も存在するはずであるが、【A】 【B】【D】には、寛永14 年の「御宮」と思しき建物は存在しない。「御宮」に注目してこの絵図をみるとき、 大きな矛盾が生じていることがわかる。  【A】【B】【D】の年代を明らかにする上では、二丸の「御宮」がどのような変遷を辿ったのか、二丸の「御 宮」は二ヶ所に設置されていたという説は正しいのか、明暦大火以後は再建されたのか否かについて、再検 討する必要がある。畑の研究は、二丸の「御宮」の検討が尽くされていないという点では不十分と言わざる を得ない。
 他方、宝永度とされた【C】は、伊東龍一によれば、元禄16 年(1703)11 月22 日の震災で、城内の石 垣・櫓・多門が崩れ、二丸銅御門も被害があったため、二丸御殿の普請が行われて宝永元年(1704)11 月 26 日に出来していることから、その際の絵図ではないかと推定されている(前掲、『江戸城Ⅰ』)。
 【C】は、色凡例に(黄色)「御殿向二階無之分」、(桃色)「御殿向二階家之分」、(橙色)「御作事方持場」と 記され、一階と二階が区別されており、作事方の持場も明示されている。 表に「老中」、「若年寄」、「御側御用人」、「御側衆」、「表右筆」、「奥右筆」等の執務室があり、表の構造が充 実している点は【A】【B】【D】と共通している。ただし、【A】【B】【D】は執務室と下部屋にそれぞれ役職 の名称が記されているのに対し、【C】は執務室の記載はあるものの、下部屋と思われる部分には役職の名 称がない。また、【A】【B】【D】は「老中」、「若年寄」、「御側御用人」の下部屋の存在が確認できるが、【C】 は御殿の構造が異なり、「老中」、「若年寄」、「御側御用人」の下部屋の位置が不明である。さらに、【C】は 表の西側に「御花壇」が存在するのに対し、【A】【B】【D】に花壇はなく、御殿となっている点が異なる。 加えて、【C】の花壇付近の御殿は銅塀によって囲まれ、廊下のみを通して奥とつながっており、二丸御殿 の中では隔絶された空間が形成されている点が特徴的である。
 「御側御用人」の記載が、畑の指摘するように、宝暦10 年(1760)以後に見出せるものであるとするならば、 【C】に関しても年代の再検討が必要となる。ただ、「御側御用人」との記載は、前述したように、幕府外においては貞享~元禄年間以降には用いられていることから、【C】が宝永度の絵図である可能性も否定する ことはできない。現時点では年代について明確な意見を述べることはできないが、寛永20 年(1643)とさ れた【A】【B】【D】の絵図が、じつは宝暦10 年以後ではないかという新たな見解が提起されている以上、【C】 についても議論の余地はあるだろう。今後の更なる研究が期待されるところである。
(髙橋喜子・お茶の水女子大学大学院博士後期課程、小宮山敏和・国立公文書館上席公文書専門官)