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古河歴史博物館


 鷹見家歴史資料とは、古河城主土井家中の鷹見十郎左衛門家に伝来した13,033 件の歴史資料で、江戸時 代から近代にかけて成立した多種多様な品々によって構成されている。その内容は多岐にわたっており、例 えば、9代目久太郎(1875 ~ 1945)が編集発行した『婦人画報』『少女画報』『コドモノクニ』等の近代出 版文化史に関わる貴重資料も見逃せないが、なかんずく6代目十郎左衛門忠常こと鷹見泉石に関わる資料の 総体は、江戸後期における政治、外交、文化の中枢を伝える貴重な歴史資料として早くから一部の研究者の 間で評価されてきた。
 昭和13 年(1938)、その新館の陳列に供する目的で東京帝室博物館(東京国立博物館)に移された渡辺崋 山筆「鷹見泉石像」(国宝、東京国立博物館蔵)を別として、ほとんど散逸せずに伝来した鷹見家の資料群は、 平成14 年(2002)11 月、古河歴史博物館に寄贈され、翌年2 月にその全点が古河市指定文化財となる。 同16 年(2004)6 月、3,157 点の「鷹見泉石関係資料」が国の重要文化財に指定された(現状変更を経て平 成27 年〈2015〉9 月時点で3,151 点)。
 泉石の略歴は次の通り。天明5 年(1785)6月古河城下に誕生。家督後に十郎左衛門、字を伯直、諱は忠常。 ほか、鷹に因んでValk と名乗ったり、オランダ商館長ブロンホフ命名のJan Hendrik Dapper(ヤン・ヘンドリッ ク・ダップル)を用いるような蘭癖の一面も持つ。号は、泉石のほか楓所、泰西堂、可琴軒など。文化4年(1807) 家督、同10 年(1814)者頭、用人となり、翌年、家老相談に加わった。文政10 年(1827)用人上席、同 年5月、番頭格。弘化2 年(1845)50 石加増で330 石。天保2 年(1831)家老へ昇進(役高500 石)。
 また、天保8 年(1837)2 月の大塩平八郎の乱では、大坂城代であった藩主土井利位を補佐して潜伏中 の大塩逮捕を指揮、その後の藩主の地位向上に貢献した。蛇足ながら、「鷹見泉石像」は大塩の乱平定後に 利位の代参のため正装していた姿を渡辺崋山が描写したものであるという。翌年の西丸老中、翌10 年(1839) に本丸老中へと昇進した藩主利位に従って実務にあたり、その間に集積した文書記録類も少なくない。将軍 の日光社参にあわせて江戸日光間の距離早見表「日光駅路里数之表」を作成して上覧に供するなど、アイデ ア豊富な能吏であった。弘化3 年(1846)9月に退役願いを提出して古河へ移住、剃髪して泉石と号する。 安政5年(1858)年7 月16 日沒、74 歳。
 泉石の職掌を反映したこの資料群には、文書記録だけではなく、絵図・地図、和漢洋の書籍、絵画・器物 という多彩な形状の品々が豊富であり、そこに彼の情報収集の特徴をかいま見ることができる。殊に刊写とりまぜて約1,000 点伝存する絵地図は、注目に値しよう。その内訳は、世界図から村絵図まで収めており、 伊能図、各地城絵図、レザノフ将来のロシア国地図といった稀覯図も多く、ポルトラーノ海図や各種の歴 史的絵図等も含まれている。愛用した測量、計量器具類も見逃せない。そうした多様な形態の品々は、120 冊に及ぶ自筆日記や900 点を越える書状類と関連して読み解くことにより、収集の背景を明らかにするば かりか、知的好奇心を共有した泉石をめぐる交流関係を詳らかすることが可能である。
 なお、古河歴史博物館では、経年劣化により公開できない絵地図類の修理を継続しつつ、年間6 回の陳 列替えを通して鷹見泉石関係資料を常設展示公開している。
(永用俊彦・古河歴史博物館学芸員)